デザインの成功が測れるようになるにつれ、デザインは手仕事から工学の仕事へと変わりました。よいデザインを裁くのは、巨匠デザイナーではなくユーザーです。重要業績評価指標は美しさではなく利益です。財務的・技術的な成果が手に入る一方で、美は舞台を降りました。いまでは、何かが欠けているように感じられます。
かつてデザインは、達人たちの手にありました。ロックスターのような服を着て、他人には文字しか見えないところにグリッドを見いだし、他人には Arial しか見えないところに Univers を見いだし、私たちの知らない色を選び、組み合わせる、選ばれた狂気の男女たちです。彼らの多くは広告業界で働いていました。そして不思議なことに、いつも 時代の先を行って いました。彼らは、自分たちが何をしているのかを知っていました。そしてその仕事は、あまりに繊細で、測ることすらできませんでした。自分で自分の髪を切るのと同じくらい、うまくやるのが難しかったのです。
「お金だ! その話はこっちでやろう!」
すると一夜にして、誰も彼もが、デザインツール、デザイン理論、ハウツーにアクセスできるようになりました。世界は、41 種類の青の性能まで測れる媒体に吸い込まれていったのです。こうして、よいデザインと悪いデザインという概念は大きく変わりました。かつてデザインは、感受性、美しさ、趣味の問題でした。いまやデザインは、ユーザーを引きつけ、利益を伸ばすかどうかの問題です。
デザインはお金に換えられます。すると当然、銀行、経営コンサルタント、会計士たちがデザイン会社を飲み込むようになりました。「お金だ! その話はこっちでやろう!」というわけです。スーツ姿の人たちは、ジーンズに黒いタートルネックのあの男に少し似た口調へと変わりました。2018 年には、Price Waterhouse Coopers や Deloitte、KPMG と一緒に IA や UX、A/B テストの話をするのは、まったく普通のことです。
デザインの重要業績評価指標は、美しさから利益へと変わりました。デザインを測ることは、手仕事を工学の仕事へ変えました。ユーザーは王様です。よいデザインか悪いデザインかを決めるのはユーザーです。そして、気取ったデザイナーではなく、実務的な会計士が指揮を執ることになるのです。
美はどう測る? いいねの数で?
どうしても測れない美を切り捨て、数字だけをデザイン品質の基準として受け入れたことには、よい面ばかりがあったわけではないかもしれません。たしかに、私たちの製品はより引きつけるものになりました。たしかに、会社は利益を出す必要があります。たしかに、Google、Facebook、Amazon を運営するのは、まるでお金を刷っているようなものです。でも、測れないものを消してしまうと、その代償もまた測れないのだと、私たちは気づき始めています。
デジタル依存、プライバシーの侵害、社会・政治・芸術の質感への影響は、偶然でも副産物でもありません。それはデジタル産業を動かす考え方の論理的帰結です。ユーザーがいるところには、売人がいるのです。私たちは、行動を観察し測定して、さらに深く依存させようとする少数の広告会社に依存するようになりました。
Google、Facebook、Amazon は、私たちのために製品を最適化しているのと同時に、私たちの心、身体、子どもたちを、自分たちの利益のために最適化しています。人間はその迷路にゆっくり順応し、私たちの必要に合わせながら、私たちを自分たちの都合に合わせていく全知の産業の実験用ラットになりつつあります。
ユーザーに焦点を当てることが、私たちの業界にとって前向きな進歩であるのは間違いありません。デザインは人間のためにあるべきです。成果を測り、仮説を検証することは、旧来の巨匠たちにとって苦しいプロセスだったかもしれません。人生は変化です。けれど、人間を人間たらしめるもののうち、いったいどれだけが本当に測定可能で検証可能なのでしょうか。
友情はどう測るのでしょう? 月あたりの返信数で? 返信の長さで? 計算言語学で? 役立ち度はどう測るのでしょう? PV の多さで? 少なさで? 離脱率の低さで? 購読数で? 信頼はどう測るのでしょう? いいね数で? リツイート数で? コメント数で? 真実はどう測るのでしょう?
業界のリーダーたちは、テクノロジーが生み出した問題は、もっと多くのテクノロジーで解決できると約束します。いまや人工知能は、ハッピーエンドをもたらす deus ex machina として掲げられています。人工知能は、さらに多くのソフトウェアによって、あらゆるソフトウェアの問題を消し去るでしょう。よい人工知能(ボット)が、悪い人工知能(ボット)を打ち負かすのです。
デザインにおける倫理
最近は、少し新鮮な別の声も聞こえてきます。必要なのは、さらに多くの技術ではなく、もっと人間的な使い方だという声です。「デザインに倫理を」という大きな呼びかけもあります。倫理がデザイナーのルールを定めれば、デザイナーはユーザーが使うものをすべて設計しているのだから、問題は解決する、少なくとも助けになるはずだ、というわけです。期待は持てますが、問題もあります。
倫理は、私たちの生活の非常に非合理な側面を、理性的に問い直すことを可能にする哲学の分野です。倫理は、私たちの行為の道徳性を問います。残念ながら、本当に哲学的な分野である以上、倫理は解決策を与えてはくれません。倫理は、私たちに「何をすべきか」「なぜそうすべきか」を考えさせます。正しいと感じることに次々と流されるのを防ぎ、はっきり考えるよう促します。それは素晴らしいことです。けれど、それだけで問題が自動的に解決するわけではありません。
倫理は考える助けになりますし、問題を整理して思いがけない前進の道を示してくれます。予想外の扉を開き、意外なヒントをくれます。けれど、倫理は抗生物質のようには働きません。80 年代の VCR の中国語マニュアルのようなものです。少しでも理解できれば、まず最初に、自分が知っていると思っていることをどれだけわかっていないかに気づかされます。自由? 何も知らない。理性? まったく見当がつかない。幸福? 定義すらできない。
倫理はもどかしいものです。世界を救うためにデザイナーはカントを読み始めるべきだと言うのは、地球温暖化を解決するためにアインシュタインの相対性理論から始めろと言うようなものです。
より深い結びつき
理論的な厄介事に手をつける代わりに、まず私たちが知っていることから始めるほうが役に立つかもしれません。デザイナーにとっては、『実践理性批判』を読み込むよりも、美学のほうがよいデザインへの近道になるかもしれません。41 種類の青をすべて測ったあとでも、私たちの多くは、内心では、利益よりも美しさのほうを大事にしているからです。それは、よい出発点です。
日常語では、美学は、見た目が心地よいだけの物の、表面的でほとんど無意味な性質として扱われがちです。それは不公平です。経済的には、美学は値の張る高級品のしるしです。美しい物は「私は高い、とても高い」と語りかけます。私たちは、美学に対する皮肉にはよく訓練されています。けれど経験から、よいものは稀であり、品質にはいつも代償が伴い、その値札は指数関数的に高くなることを知っています。
私たちはまた、本当によいものはどこか美しく、本当に美しいものはどこかよい、ということも知っています。直接的な関係ではなく、もっと深い結びつきです。あるいは、洞窟の外、まぶしい太陽の厳しい光の中にある、もっと高い場所での関係です。説明するのは難しいのです。よさと美しさは、別の美しさであり、別のよさでもあります。けれど結局のところ、それらは同じものです……。まさか、古風な美しさこそが、より人間的なデザインへの鍵を握っている、なんてことがありうるのでしょうか。