Apple が、すべてのオペレーティングシステム向けに大胆な新しいデザイン言語を発表した。どれほど良いか、あるいは悪いかを判断するにはまだ早いが、いくつかの課題は見えている。
見た目は新鮮で、動きがあり、そして(かなり) Apple らしい。iOS、iPadOS、macOS、tvOS、watchOS がすべて同じ UI パターンに従うようになったのは朗報だし、Apple のような巨大組織でそれをまとめ上げ、押し通すのがどれほど大変だったか、想像するしかない。
第一印象
予想どおり、Apple の発表は、いつもの皮肉と喜びの洪水をネットにもたらした。もちろん、すべてが悪いわけではない。世界最高峰のデザイナーたちがこの仕事に関わっているのだし、デザイナーも人間なのだから、間違いはある。
Apple が新しいものを出すたびに起きる反発は、すでに伝統だ。うるさいし、予測もしやすい。ソーシャルメディアでの第一反応から得られる洞察なんて、せいぜい縁日の音楽くらいの意味しかない。
率直に言おう。Liquid Glass は、名前としてはあまりよくない。でもコンセプトは大胆で、アニメーションは新鮮で、旧来の見た目を使い続けているアプリは、もう一歩遅れて見える。
さらに重要なのは、この変化が単なる化粧直しではないことだ。Apple が全プラットフォームに本当に統一されたデザインを導入したのは、これが初めてだ。UI 要素がライブに描画され、文脈に応じて変形する。これは単なる見た目の磨きではない。システム全体の変化だ。
比喩
比喩として見ると、ガラスは iPhone に非常に合っている。端末自体がガラスでできていて、面積は限られている。どのモデルでも、空間はいつも足りない。
ガラスは iPad でも同じように機能する。インターフェース自体が、ガラスの画面に触れて使うことを前提にしているからだ。ただ、ここでは少し必要性が薄いとも言える。iPad には、広い UI を同時に置ける十分な余裕があるからだ。
25年前の Apple の大規模な OS 再設計、Aqua を覚えているだろうか。Aqua は「水」を意味し、ある種の「液体のガラス」として働いていた。だから、何十年も前にまで遡るルーツがあるのはいいとしても、その歴史のせいで Liquid Glass は少し新鮮さを失い、macOS では少しだけ説得力が弱くなる。macOS 自体は、ただ丸くなっただけにも見えるのだ。
Liquid Glass がうまく働く場所、働かない場所
macOS で Liquid Glass を見ると、透明表現は、体験を明らかに改善する場面に限ったほうがよいのではないかという疑問が出てくる。Liquid Glass は小さいデバイスでは有効そうだ。iPad や macOS でも、次のような場合には理にかなっているかもしれない。
- スペースが限られている、または UI 要素が邪魔になるとき
- 文字の読みやすさが問題にならない、時間限定の UI 要素にコントロールが出るとき。たとえばメディアプレーヤーの操作部など
- 透明表現が明快さを増すとき。動画上の再生ボタン、写真上のコンテキストメニュー、補助テキストなど
今後 Apple は、全力のガラス効果を時間限定にしておくことを考えてもいいかもしれない。視覚効果は、控えめに使うほど効く。Siri の波や Apple Intelligence のアニメーションを思い出してほしい。あれが驚きと喜びを生むのは、現れては消えるからだ。
ラオコーン効果
Liquid Glass には、ラオコーン効果があるのかもしれない。1 レッシングによれば、静的な媒体に動的な行為を無理に押し込むと、表現はゆがみ、弱まる。ガラスは静的な素材だし、ガラスをアニメーションさせるのは厳密には正しくない。
でも見た目は素晴らしい。Siri の波や Apple Intelligence の効果のように。何が悪いのか? とはいえ、よいデザインは主に見た目だけの問題ではない。問うべきなのは、Liquid Glass が機能するかどうかだ。
読みやすさは問題だ。消費電力も気になる。そして見た目全体は、少しぼやけている。いくつかのアプリアイコンのレンダリングはにじんで見え、このシャープな画面では意外なほどもったいない。慣れの問題かもしれないが、アイコンは円でも四角でもなく、そのために少し曖昧で、決め手に欠ける感じがある。
実際、最初の版はあまりうまくいっていなかった。効果が多すぎて、機能が足りなかったのだ。そこで Apple はそれを抑えた。いまはどうだろう? それとも、まだ自分ではない何かになろうとしているのだろうか。2
「能力を欠いた欲望は、キッチュへと向かう。」 — ヤン・チヒョルト3
世界最高峰のデザインで知られる会社にとって、これは究極の挑戦だ。Liquid Glass はデザインなのか、それともキッチュなのか。
可能性
デバイスの延長としてのガラス
画面の延長としてガラスを使うのは理にかなっている。もしガラスの要素が、表面の下に独立して浮くのではなく、表面と一体で働くなら、もっと説得力があるかもしれない。私たちが触れるガラスが、私たちが触れている画面と連動しているなら。偽のクリック効果のように、いくつかの UI 要素は、触っている表面に動的なへこみが生まれたように見せることができるだろう。
電話の画面に本当に凹みができたように見え、触った感じもそうならどうだろう。ガラス効果が表面のインタラクションに直接結びついていれば、アニメーションは一貫して感じられ……ラオコーン効果も気にならなくなる。
デザインか、それともキッチュか?
では、これはデザインなのか、キッチュなのか。最初の beta はキッチュ寄りだった。まだうまく機能していなかった。いまはその中間にいるが、方向としては正しい。うまく機能するほど、単なる効果ではなくなり、デザインになっていく。
統一されたデザインにはわくわくしているし、Apple が技術的な問題を直してくれることにも期待している。新しい OS に合わせて私たちのアプリを更新するのも楽しみだ。だが、時間はかける。単なる見た目の変更では済まない。たとえばキーボード拡張は、かなり深い再検討が必要だ。そして……いま私たちは、先に片づけなければならない別の作業も抱えている。

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ゴットホルト・エフライム・レッシングは Laokoon(1766)で、彫刻のような静的な媒体に動的な動作を押し込むと、本来の表現が失われ、ゆがむと論じた。本来静的なガラスをアニメーションさせることは、美的な不協和を生むおそれがある。 ↩︎
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視覚効果のためにバッテリーを削るなら、新しい購入者は得ても、満足した顧客は失うかもしれない。美学がどうであれ、一貫性がどうであれ、比喩がどうであれ、デザイン哲学がどうであれ、バッテリー寿命を食い潰すなら、それはよいデザインではない。とくにモバイルでは。 ↩︎
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“Was einer möchte und nicht kann, wird Kitsch.” ↩︎