日本のデザインはなぜ特別なのか? 要するに、簡素さの問題です。ただしそれは、西洋でいうシンプルとは少し違う、特有の簡素さです。では、日本のものは全般に、より良くデザインされているのでしょうか? まあ、実際にはそんなに単純ではありません……
ニューヨーク・タイムズから、MUJI のクリエイティブディレクターであり、武蔵野美術大学 教授でもある原研哉さんを紹介してほしいと依頼があった。NYT が知りたかったのは、日本のあらゆるものが、あの有名な弁当箱のようにきちんとデザインされているのかどうかだった。原さんは、読む価値も考える価値もある答えを返してくれた。ニューヨーク・タイムズの本文 は、先方のフォーマットに合わせて短くされている。ここでは、その全文を英語と日本語で紹介できることをうれしく思う。
日本では、なぜ美への感受性が高いように見えるのでしょうか? 日本人は、他の国よりも美的要素や体験を重視するのでしょうか? 日本のものは、全般により良くデザインされているのでしょうか?
海外から東京に戻ると、私が最初に思うのは、たいてい「なんて味気ない空港なんだ!」ということです。それでも空港は清潔で整っていて、床は深く磨き上げられています。日本人の目には、清掃スタッフの仕事に独特の美しさがあります。それは職人気質、つまり “shokunin kishitsu” に宿るもので、道路工事の人であれ、電気工事の人であれ、料理人であれ、日本のあらゆる職業に当てはまります。
日本の清掃チームは、自分の仕事を丁寧にやり切ることに満足を見いだします。うまくやればやるほど、そこから得られる満足も大きくなるのです。
職人気質は、人に美意識を授けるのだと思います。つまり、緻密さ、繊細さ、丁寧さ、簡潔さです。私はよくそういう言葉を使います。もちろん、それは弁当づくりにも当てはまり、人々ができるだけ美しく作ろうと誇りを持つことにもつながっています。
ヨーロッパにも、同じような職人気質(“shokunin kishitsu” や “shokunin katagi”)があります。けれど、ヨーロッパでは、それが生き生きと現れるのは、ある程度の洗練があってこそです。日本では、清掃や料理のようなごく普通の仕事にまで、その職人気質が満ちています。日本では、それは常識なのです。
日本人は独特の美意識で知られていますが、同時に、醜さを見る力が乏しいとも言えると思います。どうしてでしょうか?
私たちはたいてい、目の前にあるものにだけ全神経を集中させます。とくに、それが自分の個人的な視点に不可欠でないなら、ひどいものは無視しがちです。自分たちの都市が、醜い建築や不快な看板であふれた混沌だということも、見て見ぬふりをするのです。だから、日本では、美しい弁当を、殺風景な会議室や、ひどく混み合った歩道で開いて食べる、という光景が生まれます。
日本では、ものごとは全般に、より良くデザインされているのでしょうか?
日本の中心的な美学原理は簡素さですが、西洋の簡素さとは違います。その違いを料理用の包丁で説明しましょう。たとえば、ドイツのヘンケルス社の包丁は、人間工学的に非常によくできていて、使いやすい。握ると親指の位置が自然に決まります。

特別な腕を持つ日本料理の料理人は、人間工学的な形を持たない包丁を好みます。平らな柄は、荒っぽさや未熟さの表れではありません。むしろ逆です。完全に無地であることは、「あなたの技術に合う使い方でどうぞ」と言っているのです。日本の包丁は、料理人の親指ではなく、料理人の技に合わせています。これが、要するに日本の簡素さです。

包丁の単純な形は、粗末でも未熟でもないと見なされます。飾り気を超えた美しさは、日本人の感覚の奥底で眠っている美学です。それは、日本のハイテク建築や、無印良品のミニマルな製品を導く原理でもあります。
弁当に当てはめれば、意味は単純です。気取らず、やりすぎないこと。美しい弁当は、旬の食材を使い、手早く、簡単に作るものです。
原文の日本語
日本には優れた美的センスとそれを尊重する雰囲気があるように思えますが、これはなぜでしょうか? 日本人は美的な要素や体験を他の国の人々より重視するのでしょうか?
海外に出かけて、東京に帰ってきていつも思うのは、空港は野暮だが、隅々までよく掃除が行き届いてきれいだということ。床のタイルは寝転がっても服が汚れないほどピカピカだし、カーペットも丁寧に掃除されている。これは掃除人が義務としてやっているだけではない。ある美意識がそこに働いている。掃除人は自分の仕事を丁寧に完遂することに満足感を覚えているはずだ。道路工事をする人も、電気工事をする人も、料理をする人も同様だ。欧米にも、職人気質というものはあると思うが、それは一定以上の技術と精神性に対して発動されているように思われる。しかし日本の場合は、ごく普通の掃除や調理にも当てはまる。「緻密」「繊細」「丁寧」「簡潔」と、私はよく言っているが、そういう美意識が普通の人々にスタンダードに備わっている。弁当を作るにも精一杯それを美しく行なおうとする心理も同じものだと思う。
ただ、日本人は「美に聡く、醜さに疎い」といわれるように、意識を向けた先には細心の注意を払うが、個人の美意識では把捉できない巨大な醜さを見逃し放置する傾向がある。だから、都市は混沌とし、醜い建築や看板が街に横溢しても、見て見ぬふりをしている。だから、美しい弁当を殺風景なオフィスの会議室や、猥雑な街頭のベンチなどで広げて食べているのも日本の特徴的な光景と言えるだろう。
日本では(意匠的に)良いデザインのプロダクトというのはごく一般的なのでしょうか?
日本人は一般的に簡素を好む。日本の簡素さは西洋のシンプルとは異なる。近代の到来から300年ほど前に、日本は独自の簡素さを旨とする美を発見し、身につけてきた。
二つの調理用の包丁をご覧いただきたい。一つはドイツのヘンケル製。人間工学的によく出来ていて大変使いやすい。これが西洋流のシンプル。握ると自然に親指の位置も決まる。しかし、超絶技術を持つ日本料理の板前はグリップに凹凸のない包丁を使う。平板な把手は貧しさや未成熟ではない。むしろその逆である。どこを持ってもよいという完全なプレーンさが、板前のあらゆる技術を受け入れる豊かさになる。これが日本流の簡素さだ。
簡素でありながらもそれが貧しさにはならず、むしろゴージャスさを凌駕する美につながる。そういう美意識が日本人の感覚の奥底に眠っている。それが日本の建築やハイテク技術、そして無印良品などのミニマルなプロダクツの背景をなすものだ。弁当も、決して凝りすぎてはいけない。旬の素材を簡単に調理し、手早く美しく作る点が肝要である。